D 社は,義手の製造メーカである。義手とは,外傷や病気などで手を失った人が用いる人工の手のことである。D 社は,外観の再現を目的とした装飾用義手と,肩,背中,反対の腕などを動かして機構部を操作し,物をつかむ,放すという手の基本的な機能を実現する能動義手を製造販売してきた。
D 社の製品は,外観の再現性が高く,アフターサービスが良いので,利用者からの評判が良い。一方で,“日常生活をより自然に送れるように,指を個別に動かすことができる自由度の高い義手が欲しい”といった要望も多く寄せられている。
D 社は,顧客の満足と社会貢献を社是として掲げ,顧客の要求に応える製品開発に取り組んできた。D 社は,次に開発する自由度の高い義手について,信号処理及びモータ制御が要素技術として必要になると見越して,これらの技術研究を進める方針を策定した。また,将来は保有技術を他市場に生かして事業を拡大することが必要になると考えている。
〔義手を動かす技術〕
利用者の意思で動かせる義手には,能動義手のほか,筋肉の収縮時に発生する微弱な電位(以下,筋電という)を検出して,これを基にモータで手指を動かす義手(以下,筋電義手という)がある。
今まで海外も含め製品化された筋電義手は,手を失って残った前腕の表面から検出した筋電を基に,5 本の指を同時に曲げて物をつかつむものだった。しかし,最近では,検出した筋電の波形を分析する研究が進んだことによって,個々の指を動かすための筋電を別々に取り出す技術が発表されている。
人の手,指の構造を考慮すると,関節の数や動きから,指 1 本当たり 4 自由度,手首から指先まで合わせて 24 自由度があり,このような製品ができれば,日常生活でほぼ不自由なく使えると考えられている。
〔市場状況〕
義手は,ほかの福祉機器と比べ,国内において対象者が少ないことから,需要が少なく量産化によるコストダウンや売上拡大が期待できない。
筋電義手は,海外において半世紀以上前に製品化されている。海外では,紛争,災害などで手を失った人が多いこともあり需要が多く,幾つもの海外メーカが筋電義手の製品を販売してきたことで製品が行き渡り,市場としては既に飽和状態にある。現在ではメーカが淘汰されたことで寡占市場になり,価格が下がりにくい状況になっている。国内においては,筋電義手を販売しているメーカはないが,海外メーカは国内市場への進出を狙い,代理店を探し始めている。
〔今後の展望〕
自由度の高い義手の技術は,IoT,仮想現実(VR)及び触感のフィードバック技術を組み合わせることによって,宇宙空間,海底など人が立ち入ることが難しい場所で補修をしたり,ケーブルをつないだりといった細やかな作業ができる遠隔操作ロボットハンドとして,さらには,視覚,聴覚及び触覚で活用して遠隔地にいるような体験ができるテレイグジスタンス技術としても利用できる可能性がある。
〔試作機の開発〕
D 社は,手首から指先までの全ての関節を別々に動かすことを目標とし,開発期間を限定して,PC を用いた筋電義手の試作機を開発した。試作機を開発した結果,筋電を検出して物をつかむことが可能であることは確認できたが,筋電の波形に基づき全ての指を別々に動かすための情報処理が難しく,例えば,“グー”,“パー”は実現できたが,“チョキ”は開発期間内に実現できなかった。この時点で,D 社の保有技術だけで自由度の高い製品を開発すると開発費が高くなることが予想された。
D 社は,この試作機を数名のモニターに利用してもらい,意見を収集した。
〔国の方針〕
国は,障害のある人がそれぞれの障害の種類,状況に応じ,ハンディキャップを意識せず,自立した豊かな人生を享受できるインクルーシブ(包摂)社会を実現する目標を掲げた。この目標を達成するために,国は,IoT,AI の技術開発を強化して障害のある人の ICT 利活用を促進する方針を定めた。
〔大学における研究〕
G 大学の H 教授は研究室の学生とともに,筋電義手の技術,及び筋電義手の使用時に対象に加えた圧力をフィードバックさせたり触感を感じさせたりする技術の研究を進めている。特に,個々の利用者が自由度の高い義手を違和感なく動かすために必要な先端技術を AI で実現する研究を行っている。主な研究内容を次に示す。
- 利用者には,“手を握る”,“手を開く”,“じゃんけんをする”,“2 本の指でつまむ”などの感覚で筋肉に力を入れてもらい,義手が意思どおりに動いたらその時点の筋電の波形と動作を学習させる。
- 学習のための大量のデータから,規則性やルールを AI で見つけ出し,制御する。
H 教授は,研究した AI の技術を搭載した筋電義手の製品を世に出すことによって,その製品に対する社会における認知度を高めるとともに,先端技術を発展させるために必要な大量のフィールドデータと研究費用を継続的に取得したいと考えている。
さらに,H 教授は,筋電義手の使用時に対象に加えた圧力をフィードバックさせたり触感を感じさせたりする技術においても先駆者として取り組み,実装可能なレベルの成果を挙げている。
〔製品化の検討〕
D 社の IT ストラテジストである E 氏は,試作機を基に自由度の高い筋電義手を製品化することを想定し,技術上の問題点の整理をシステムアーキテクトの F 氏に依頼した。F 氏は,機構設計の技術者と協力し,試作機を利用したモニターの意見も踏まえ,次のように問題点とその原因を整理して E 氏に報告した。
(1)“反応速度が遅く使用に違和感がある”
筋電の波形から指を動かす信号を取り出す処理と,この信号を基に指ごとのモータを動かす処理を,筋電義手の接続先である PC で行っているからである。
(2)“生卵やガラスコップを持つのが怖い”
フィードバック機能がなく,持つ物に対してどの指でどれくらいの圧力を加えているのかが利用者には分からず,壊してしまうおそれがあるからである。
(3)“義手が重く,連続使用時間が短い”
自由度が高まるに従いモータの数が増え,現在の技術では義手が重くなり,消費電力も増え,バッテリによる駆動可能時間が短くなるからである。
(4)“利用者に合わせるチューニングに長時間掛かる”
検出される筋電の波形が利用者によって異なり,筋電と義手との動きを合わせる作業に多くの時間を掛けているからである。
E 氏は,試作機の開発結果と F 氏の報告内容を考慮し,最初の筋電義手の製品を開発するに当たり,自由度は市場の製品の水準をやや上回る程度に限定すべきと考えた。また,信号を解析する情報処理の面では,ほかの組織から技術を得るべきと考え,H 教授を訪問して意見交換を行った。
H 教授は,意見交換の中で,D 社と継続的に協力したいとの意向を示した。
〔目標と開発方針の設定〕
E 氏は,筋電技術の最新の技術動向を F 氏が調査した結果,及び H 教授と意見交換した結果を踏まえ,次の目標を設定した。
- AI の技術を用いることによって,自由度の高い細やかな制御を可能にする。
- 常に先端技術を搭載した製品を開発し続ける。
- 将来的には,箸を使ったり,ギターを弾いたり,タッチタイピングでキーボードを打ったりすることができる,軽くて自由度の高い筋電義手を安価に提供する。
また,最初の筋電義手の製品開発に当たり,F 氏の報告と H 教授の意見も踏まえた上で製品の開発方針を次のように整理した。
- 試作機では PC で行っていた機能を,AI チップ化して筋電義手に組み込む。
- 対象に加えた圧力をフィードバックさせたり触感を感じさせたりする装置を追加する。
- H 教授に,継続的な相互協力の中で技術協力を依頼する。
- 短期間で開発し,国内市場で販売を開始する。
〔事業戦略の策定〕
E 氏は,最初の筋電義手の製品開発に当たり,各種助成金を得て研究開発費に充当することができないかどうかを調査すべきと考えた。また,販売先を国内から海外へ展開し,量産化によるコストダウンや売上拡大を図るべきと考えた。さらに,遠隔操作ロボットハンドを手掛ける国内会社に技術供与の提案を進めるべきと考えた。